[イラン音楽紹介] イラン音楽のこと〜出会い編

この世に星の数ほどある音楽のなかで、私はいま「イラン音楽」というひとつの分野に執着している。
なぜ、と訊かれれば、面白いから、としか答えようがないのだが、私がなぜ面白いと思うようになったか、とか、どのへんが面白いのか、とか、そういったあたりについて、あまり専門的な用語は使わずに(使う場合、できるだけ解説を入れつつ)つらつらと書いてみようと思う。

まずは自己紹介がてら、なぜ私がイラン音楽を聴くようになったかについて、書いてみる。

私は、90年代から2010年頃まで、様々なバンドでギターリストとして活動していた。
ギターという楽器を使って表現できるジャンルはいろいろあるが、概ねロックやニューウェイブを起点としていて、活動の最終期は昭和歌謡やムード歌謡と呼ばれるジャンルに行き着いていた。
ギターリストとしての活動期間中に、3 Mustaphas 3 やギリシアのレンベティカアルメニアのフォークソングなどは好きで聴いていたが、それらのような音楽を自分で演奏するには至っていない。

2011年の東日本大震災と原発事故のときに思うところあって、ギターを弾くことを止めてしまったが、たまたまネットでみかけたフレームドラムという楽器に心引かれ、その奏者になるとかどうとかはまったく考えずにただただ、興味のおもむくままに自分でもフレームドラムを買い、練習に明け暮れるようになった。

ご多分にもれず、Youtube で演奏が達者なひとを探してはそのたたき方を真似てみる、ということをよくやっていたが、ある日、一人のフレームドラム奏者の演奏を見つけたときにある意味で運命的な出会いをしてしまった。
その人は David Kuckhermann というドイツ人で、David がやっていたある奏法に夢中になった。いわゆる「ロール」の一種なのだろうが、「どん」とか「かん」とか「ぱん」などと鳴っていたフレームドラムが、彼がその奏法を始めたとたんに「ざわわわわわ」と鳴るのである。

調べてみると、問題の叩き方は「リーズ奏法」と呼ばれ、イランの打楽器「トンバク」でよく行われているものであることがわかったのであった。
そこからトンバクの奏者を片っ端から検索するようになり、iTunes Music Store で買うことができるアルバムがあれば嫁さんに怒られない程度に買いあさって聴きまくるようになっていった(というのは嘘で、クレジットの請求書が届いたあとで嫁さんには何度か怒られた)

最初の頃にもっともよく聴いていたトンバク奏者は、オスタード・マジード・ハーラージ(Madjid Khaladj)。オスタード、というのはペルシア語で「先生」の意。
ハーラージ先生が共演されているほかの楽器奏者は、現在のイラン音楽界の重鎮というべき方々であったのだが、当時はほかの楽器にはそれほど興味がなく、単純にハーラージ先生がクレジットされているアルバムを聴きまくっていたのであった。

この頃までは、イラン音楽、というよりもトンバクという楽器にのみ、興味を持っていた時期である。

そうこうしているうち、イラン音楽の中に、私がギターリスト時代に好きだった「弾き語り」というスタイルがないのだろうか、という興味が芽生えたのであった。で、まさに、弾き語りをされている音楽家を、イラン音楽の中で見つけてしまったのである。
それが、オスタード・モハンマド・レザー・ロトフィ(Mohammad-Reza Lotfi)。
ロトフィ先生は、風貌からしてなんだか水墨画に描かれる仙人のようであるが、「セタール」という撥弦楽器を爪弾きながら、木訥とした声で時に淡々と、時に情熱を込めて歌うその音楽に触れたとき、そこでやっとというかなんというか、「イラン音楽」というものの存在に初めて意識が向いたのである。

さて、ロトフィ先生によってイラン音楽に目覚めてしまった耳で改めてその演奏を聴いてみると、次のようなことに気がつく。

  • 楽器は、弦楽器奏者一人と打楽器奏者一人、の計二名のみなのに、アンサンブルとして必要最低限にして既に十二分な構成。ダイナミクスの観点でも、太鼓が低音から中低音部分を下支えし、セタールが中音から高音部分を彩り、ロトフィ先生の歌をにおけるテクスチャーとしてまったくもって「ちょうどよい」音響空間を演出している。
  • アルバム一枚を通して聴くと、たいていはだいたい半分くらいのあたりを境に一部、二部のような構成になっている。一部も二部も曲自体はいくつも演奏されるが、クラシックでいう組曲のような構成にも思える。
  • 器楽(インストゥルメンタル)だけな部分と、歌が入ってくる部分の配合が絶妙。特にライブ盤の場合はいちばん最初の導入部分からして、これから始まろうとしている音楽の伏線をものの見事に表現しており、聴く側はこれから起こるであろう様々なドラマを期待しつつ、自然と音楽に没入することができる。

 

ロトフィ先生を知ってしまった後、それまで聴いていたハーラージ先生も含めたありとあらゆるイラン音楽のアルバムは、上に挙げた事柄が概ね当てはまることにも気づくようになる。

これらのことは、イラン古典音楽の中ではひとつのセオリーとして確立している部分でもあるということを後から知ることになるのだが、そのことは追々書いていこうと思う。

まずは、私がイラン音楽に出会うところまで。

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